第12回倉岡愛穗墓前祭
第12回倉岡愛穗墓前祭にあたり、倉岡愛穗さんへの追悼のことば
倉岡愛穗さんは、上宇川で生まれ師範学校卒業後、地元で教鞭をとり、熱心な教育者として28歳の若さで校長となりましたが、学校火災・消失の責任を取り職を辞し、兄弟のいる神戸で再度、教鞭をとりました。新興教育運動で、子供たちを戦争へと駆り立てる教育に抗い、子供たちを健やかに育む教育実践を志して熱心に活動されました。しかし、36年12月、活動する人々が関西9府県だけで数百人が一斉検挙され、神戸市の御影警察署に連行された倉岡愛穗さんは、屈せずたたかい、逮捕106日目の37年4月9日、拷問で虐殺されました。警察は、死去後10時間も過ぎてから遺族に連絡をとり、「葬式を出さないという条件で死体を引き取れ」と命じました。拷問死があばかれるのをおそれたのです。
今あなたは、命を奪われて30年後に故郷のこの場所に墓碑が建立され、多くの方々があなたの功績、足跡を学び訪れています。
戦前の絶対的天皇制のもと、富国強兵、アジアへの侵略、治安維持法等での国民への弾圧と強行政治が行われてきました。2019年に宮内庁長官を務めた田島道治氏の手記が公表されました。この中には昭和天皇の戦争への編成の言葉が当時の吉田首相の反対で断念も記されていました。しかし、その一方で自己弁護を繰り返し陸海軍の統師者としての侵略戦争の直接責任の自覚は全くありません。
終戦に関しても無条件降伏は、嫌と戦争を継続させ広島・長崎をはじめ多大な被害と辛酸を与えました。しかし、東京裁判では天皇とあの悪魔の731部隊、特高警察、治安検事、判事は戦争責任を追及されず、今日に至っています。
私たち治安維持法国家賠償要求同盟は、倉岡愛穗さんをはじめ、働く人々の権利を守り、日本共産党員とその支持者や労働組合、民主主義者が、あの戦前に命を賭して「主権在民」、「侵略戦争反対」、「8時間労働制」、「男女平等」、「18歳普通選挙権」等々、今の憲法に当たり前となっている要求を掲げたことで命を奪われた、先人の人権の回復、功績をたたえ、その損害への賠償を求めて、民主主義の原点ともいうべき要求で戦っています。
いま、新型コロナウイルス感染症で騒然としていますが、日本の政治情勢は再び戦争する国づくりへと反動化が激しくなってきています。しかし、あなたが奮闘された時とは大きく変わり、私たちの運動は大きく前進しており、戦争法を国会強行した時、国会を取り巻く市民の運動は大きなうねりとなって、市民と野党の共闘、野党連合政権を展望するなどの政治的前進と私たち国民の運動の前進があります。
自民党安倍政権をはじめとする歴史修正主義者の策動を許さず、私たちの要求と運動が花咲く社会、戦争への道でなく国民が主人公となる社会を作り、倉岡愛穗さん、あなたが実践しようとしていた教育、社会の建設に向け頑張ります。
今、この故郷丹後では市長選挙と市会議員選挙が戦われています。この選挙での勝利を誓い追悼の言葉とします。
2020年4月9日 治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟
京都府本部会長、日本共産党府議会議員 原田 完